tigerdriver-91’s blog

東京に来た大阪人がつれづれなるままに書いたブログ

ネットマークスにて

長い有給消化も終わり、2/15からネットマークスで働き始めます。ネットワークインテグレーターの経験ゼロの僕が最初に経験したのは、キャリアゼロの人間が、全くやったことのない業務、全く経験したことのない他の会社の文化、誰も知り合いがいない環境で仕事を開始することの苦労でした。

 

しかもこの四月から社会人5年目、四年間の経験も問われます。他の人にどうみられるか気になるのと、早くみんなに追いつかなければならないという焦りがありました。同じ部署の人たちが幸いにも同世代が多かったのが救いですが、英語三文字のよくわからない言葉(MSP、SSO、IAMなど)、古いメーカーでは使わない言葉(タリフ、ロードバランス、脆弱性など)、ネットマークス独自の言葉も入るので、混乱しまくりでしたね。『それは、データセンター側のNG化だから、MSPのNOKIA/checkpoint担当をアサインして』と言われた時にはパニックだったことを記憶しています。

 

YKKの同期が言ってたことを思い出しましたね。『転職は、転職してからが大変』だったということを。転職活動をするとなると、やはりよい給料で入社したいものです。なので、面接では出来るだけ背伸びをして、自分を良く見せようとばかりしてました。就職活動で使ったホノルルマラソン完走と、YKKでは新規事業で誰もその事業をわかる人がいない中で、粘り強く小型研磨機をセールスして国内ナンバーワンセールスになったとかハードルを上げることを言ったので、粘り強くやってくれるんだろうなーと思われたと思います。

 

当時はサービス残業が当たり前だったので、粘り強さを発揮して毎日終電まで働き、毎日9時前に出社してました。睡眠時間を確保したいので、池袋から赤坂見附まで丸ノ内線の始発に乗っていたことが懐かしいですね。

 

では、僕が仕事ができないので残っていたかというと、周りの方々も平気で残ってました。残っているメンバーは大体固定されたましたね。今では考えられないのですが、部署の人数に対し仕事量が圧倒的に多いため、定時で帰れることはありえない状況で、早くても10時、遅ければタクシーが当たり前でした。パソコン持ち出しに制限がない時代でしたので、どこで仕事をやってもオッケー、業務をこなせれば問題なしでした。なので、事務処理をする派遣さんも普通に残業してました。

 

要領の良い方だったり既婚者は外や自宅で仕事をしてましたが、残っているメンバーは大体同じで、やることも赤坂見附の居酒屋で終電前に乾杯、ガンガン飲んで夜の2時過ぎには変なテンションになり、腕相撲大会が始まったり、オープンスペースで脱ぎ始めたりなど乱れまくり、酔いつぶれた人は、どこぞで見つけた車椅子に乗せて、路地裏に転がしでバイバイ、とか、乱闘をする人は朝まで南署だったり、残ったメンバーは赤坂見附のジョナサンで朝を迎えたりと、溜まったストレスは酒で流すがきまりでしたね。ジョナサンからの早朝出勤は、防災センターを抜けて会議室で仮眠をしてました。朝9時ごろにゴソゴソと自分のデスクに向かうことはよくありました。当時、上野のキャバクラにハマっている先輩がいて、たまに連れて行かれるのですか、個別会計でしたので先輩後輩関係なくお金を払う分だけは楽しもうと無理矢理楽しんでいたことも懐かしいですね。上野なので、タクシー帰りで高くつきましたが。。あの頃お金を貯めていたら、この後の個人事業主をもう少し長くやっていたかもしれないですね。まぁ、社会勉強ですね。ただ、お金は使いすぎましたね、キャバクラ遊びはこりごりになるくらいですね。ストレスがあったのでしょうか、当時は一人でも行ってましたね。27歳独身男性が半年で50-60万円は使いましたね、もったいない。まぁ勉強代ですかね。

 

ネットマークスは当時、CiscoやF5など様々なネットワーク機器の一次代理店でした。僕が入社した2003年はネットワークセキュリティに注目が集まっていた頃なので、一次代理店である事は商品をセールスする上でも大きなアドバンテージでした。単純に機器を売るだけで1.5-2割の利益が入ってきたと思います。

 

僕はパートナーセールスの担当となりました。一次代理店として、売れまくる商品の見積もり作成と納期調整が主な役割で、まずは商品を覚える事、NIer業界に慣れること、新しい環境に適応する事でした。異業種転職後のことはどんな本にも書かれていなかったので、どのように振舞ったら良いかわかりませんでした。当時の転職エージェントは転職させたら終わりでその後のフォローはしてくれなかったので(今もそうかもしれませんが)転職後の対応は本当に苦労しました。

 

助かったのは同じ年の人が多かったことでした。飲みに行って苦労を聞いてくれる仲間がいることでした。僕は一人前になろうと焦ってばかりでしたので、本来の自分を出せていたのかな?と感じてました。周りからは焦ることはないぞ、とかなり言われていた頃が懐かしい思い出です。

 

兎に角、3ヶ月はがむしゃらに仕事をしました。8時45分に出社し、終電でかえる。毎日この生活でした。流石に土日は休んでましたが、「土曜日に機器設置があるので、営業も同行しなさい」という理由で設置に同行し、特に何もすることなくサーバールームにいることもありました。当時は残業代や休日出勤手当などという考え方がなく、それが当たり前と思って働いていました。

なので土日出社なし!となると、殆どゴロゴロしてすごしていました。洗濯と掃除と食料の買い出しで一日終わってました。暇だったのが入社して一週間だけでしたね。当時はみんな忙しかったので、新卒に近い僕を受け入れる準備は出来てなかったんでしょうね。見積もりと納期の進行管理が分かると、一気に担当を渡され、作業対応の嵐でしたね。しかも入社して1ヶ月で保守とMSPの仕事も担当することになったので、もう全く回りませんでした。

 

保守に関しては、その後、同じ部署の人が保守を担当するようななったのであまりキャッチアップする必要は無くなりましたが、当時のネットワークセキュリティ機器はよくトラブルがあったので、テクノロジー部隊との連携はかなり密に行いました。しかも、トラブルは出来るだけ短い期間に解決しないと、ヤバい。「メールが配信できないよ!」「ホームページがダウンしている」なんてよく聞く話でした。

 

MSPというのは、今で言うSaaSが近いのですが、自分たちでネットワーク機器を管理する必要がないのは大きいですね。データセンターさんとの連携は必須なので、TISさんとの仕事のつながりは大きかったですね。毎日竹芝に訪問していたので、竹芝の船乗り場から仕事を捨てて大島に行こうかな!と思ったこともありました。それくらい辛かったけど今となれば良い経験ですね。

 

仕事は山のようにあり、見積りマシーンと化していましたが、常に仕事があり対応し続けていることで売り上げや成績もクリアーするので、苦しいながらもやりがいはあったと思います。

 

ただ。。。喫煙室でのちょっとした出来事から転職することになります。

 

それは、もともと同じ部署にいた人が、経理に異動し、売れている部署の内容を調べていたら、ここでは書けないですが、あれ?だと思うようなことが起きていました。これを聞いて僕は将来不安になりました。一生懸命働き、働いた分が成果になって満足していましたが、この状況を把握したらいつまでもこの会社にいれないな、と思いました。その後、日商簿記三級を取るのですが、それを取ろうと思ったのが、このことがキッカケでもあります。なお、仕事をすればするほど成果が上がる仕事でしたが、見積りマシーンという表現も正解でした。見積りを出せば受注が来る環境でしたので、知識さえつければ売れる。ただ、強烈な競合が現れて、同じことをしても売れなくなる場合の準備はできていませんでした。高額なサービスでしたか、他社も安くする事で、少しずつ受注が減っていることも実感してました。

 

その時思ったのが、ただがむしゃらに働いているだけではダメで、如何に勝ちパターンを作り、常に新しい情報を得て、新たなことにチャレンジしないと上手くいかないということを学びました。

 

この会社で新たなチャレンジをすることもあり、だと思ったいましたが、自分が本当にそれがやりたいことなのか、と自問自答した時に、必ずしもそうでないことが分かりました。

 

自分のやりたいこと、考えていくうちに、昔はラジオを聴きながらハガキを送っていたハガキ職人時代のことを思い出しました。あの頃、芸人と放送作家が一緒にラジオのパーソナリティとしてでている番組があり、誠のサイキック青年団だったかな。その時、北野誠竹内義和、そして放送作家のデーマンさんが3人でパーソナリティをやってましたが、デーマンさんって芸人ではないけどラジオに出て、芸能人と楽しく仕事をしているのがなんかいいなーと思っていました。しかも、放送作家という番組のシナリオを作る仕事にも魅力を感じていました。当時のテレビで番組に出ていた放送作家は、ダウンタウンの座付である高須光聖さんや、倉本美津留さん、安達元一さんくらいでしょうか。当時はまだまだ注目されず、決して目立つ存在ではありませんでしたが、番組を作って芸人と仕事をするというミーハーな仕事に魅力を感じていました。新しいことをやるのであれば、思い切って放送作家を目指すのもありかなぁと思い、脱サラして放送作家を目指すのでありました。