tigerdriver-91’s blog

東京に来た大阪人がつれづれなるままに書いたブログ

伝説の七大投資家

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ジェシー・リバモ

1929年の大恐慌の引き金を引いたと言われる「 ウォール街伝説の投機王」。 驚くほどの成功と幾度もの破産を経て悲劇的な最期を迎える 

 


ベンジャミン・グレアム

ウォーレン・バフェットが「生涯の師」と呼ぶ投資理論家。 割安株指向の「バリュー投資」の創始者として知られる

 

フィリップ・フィッシャー

数字だけで投資先を選ぶグレアムに対し、 数字だけではなく将来の成長性や競争力を重視する「成長株投資」 の創始者。バフェットのもう1人の師である。  

 


ジョージ・ソロス

「クォンタム・ファンド」の設立以来、幾度かの損失はあるが、 ほぼ一貫して勝ち続けている「世界一のマネー・マネージャー」「 イングランド銀行を叩き潰した男」とも呼ばれる

 


ウォーレン・バフェット

「世界一の投資家」「オバマの賢人」と呼ばれ、 投資の世界以外にも強い影響力を持っている。毎年、 卓越した成績を上げ続ける負けを知らない投資家である。

 


ジム・ロジャース

37歳で「クォンタム・ファンド」を離れ、 バイクと車で2度も世界中を回った「冒険投資家」 自分の目と足で成長を確信した新興国市場への株式投資を得意とす る。

 


ピーター・リンチ

マゼラン・ ファンドの資産を在任中の13年で777倍へと成長させた伝説の ファンド・マネージャー。個人投資家向けに「アマチュアの利点」 を説いている。

 


時系列では上記の通りですが、本誌で構成状、 時系列順ではないことがあります。それではまず、 この人から始めます。ではでは。

 

 

 

1.ジェシー・リバモ

1929年10月に株が一気に売りが集中した「暗黒の木曜日」。 銀行が下げ止まりを防ぐために買い支えたものの、 休み明けにダウ平均が13%も下がり翌日も暴落した「 悲劇の火曜日」

大きな損失を被った投資家たちがパニックに陥って株の損失を埋め るために、様々な事業や国に投じていた資金を引き揚げた。 コレが世界恐慌に繋がったと言われている。

 


その引き金を引いたと言われているのがジェシー・ リバモアと新聞は書き立てた。リバモア自身「 一個人が市場を動かし、 価格を思うままに上下出来ることは不可能」と答えているが、 リバモアのやり方は完璧だったと言われている。

 


バモアは高騰を続ける株価の先行きを下落と睨み売り込んでいた 。1億ドルを超える仕込みを終え、 すざましい勢いで株価が下落する大恐慌のさなか、 巨万の富を得ることになった。それがなぜできたか、 と言うことだ。

 


バモアはマサチューセッツの貧しい農家に生まれる。 14歳で学校を辞めさせられ農業一本で生活するように言われるが 、母親からもらった五ドルで上京。 最初は株価の変動を黒板にチョークで書く「チョークボーイ」 だった。

そこで、株価の変動を間近でチェックし、投資家の意見を聞いて、 上がり下がりする株を見て教訓を得る。

 


「株価が変動する姿のみに意識を集中せよ。 変動の理由に気を取られるな」

 


「 市場が発信する理論的に間違いのないシグナルを確認して行動する 」

 


という原則を常に意識していた。

 

 

 

いつの時代も、行き当たりばったりで売買を繰り返す、 自分の好みだけで株を選ぶ、 誰かの予想に乗って理由もなしに推奨株を買う、 このような人が今も昔も多いかもしれないですね。

 

 

 

16歳になったリバモアは違法のバケットショップで自分の理論で 相場を張り、儲けるようになった。本来、 バケットショップは胴元が儲かるようになっているのだか、 そこでも利益を出し続け、締め出しを食らう。 そして実家に儲けた1,000ドルを持って帰るのだ。 

 


ボストンでの戦いが困難となり、稼いだ2, 500円を持ってニューヨークに乗り込む。ただし、 ウォール街で破産する。ハッサンに1,000ドル借りている。 ボストンのバケットハウスで借金を取り戻し、 ニューヨークに戻り、ハッサンに1, 000ドル返して再起を図る。その時、 リバモアは相場に勝つための秘訣として以下三つと言う

 


・タイミング

・手持ち資金

・冷静さを失わない自制心

 


市場は常に正しい、絶対的に正しい。それに対して人間は、 しばしば誤った予想を抱き、進む道を踏み誤る。 相場に勝つ必要はない。勝たなければならない相手は自分自身。 感情の起伏である。リバモアは20代の若さで理解していた。

 

その後,結婚、2度目の破産(合計で破産は4回)、 別れをする中で経験したのは、 大きく勝負をするときには小口で売り、 利益が出ると思ったら一気に売る。それまではひたすら待つこと。 誰とも組まずひとりでやること。内部情報や極秘情報は信じるな。 10%の損が出たら売る。利益を出すには倍の労力がいるからだ。

 


破産、復帰を繰り返し、2度の離婚、元妻が息子をピストル射殺。 市場が盛り上がっている中、 1人売りを確定させて1億ドルを手にし世界恐慌を引き起こした男 と言われた男も最期に自殺と波瀾万丈の人生でもあった。

 

 

 

 

 

 

2.ジョージ・ソロス

イングランド銀行を潰した男として知られている。ジム・ ロジャースと共にクォンタム・ファンドを設立。

ユダヤ人であるソロス一家は、 親ドイツのハンガリーで生活していたが、ナチスドイツが侵略。 家族がバラバラになり偽名を使って生きてきた。「 正体がバレたら殺されていた」という少年期。「 危険をおかすことは,悪いことではない。リスクをおかす際は、 全てをかけるな」と言う考えで生きてきた。 その後ソ連配下となるがインフレが起きる、 ソロスは両替の仕事を請負、 手数料でマージンを得るビジネスを知る。

 


投資家になった時「上手くいっていない時、最初にすべきことは、 投資額を減らすことだ。損失を取り戻そうと考えてはならない。 少額から投資することだ」

なので損失も出すことがあるが、全てを失うことはしない。 それがソロスの投資である。

 


17歳でロンドンの大学で経済学を勉強。 ハンガリー人は奨学金も出ないためバイトをしながら勉強をした。 「金儲けの大切さも理解しているが、偉大な哲学者になれば、 財産を築くよりはるかに大きな充足感をえられる」と考えていた。

 


ハンドバック製造メーカーでセールスを経験し、 その後ハンガリー出身者で経験する会社の金と株式の裁定取引を専 門とするトレーダーになった。ただ、 成果がですクビになりアメリカに渡る。 ウォール街のにはヨーロッパの金融市場に詳しい人間がおらず、 その知識を支えに欧州株の専門家として出世、 運用者として成功していたが、ジム・ロジャースとともに「 クォンタム・ファンド」を設立。

 


ジム、ロジャースはイェール大学卒業後、 オックスフォード大学ベリオル・カレッジに学び、 徴兵後ウォール街で働く。学生の頃から株の運用を行い、今後、 どんな株や商品が上がるかの予測が長けており、 ソロスの下で働いた後、一緒にファンドを設立した。

 


ロジャースが下準備をし、ソロスが引き金を引いて撃つ。 市場と逆の投資をすることが彼らの成功パターン。 ソロスは広く知られる前の会社を見つける天才だった。

 


会社が大きくなっていったが、 ロジャースは37歳でファンドを離れた。 ソロスと2人だけで世界に挑むことを望んだ。 そして今の仕事を続けることを悩み、 そのまま2000年のITバブル崩壊で損失を味わう。 でも一年で復活するのだが「ゲームに参加したければ、 苦痛に耐える覚悟がなければダメだ」とのこと。

 


ソロスはロジャースが去った後から将来的にファンドを任せられる 人材を探し、ジム、 マルケルにソロスの投資ノウハウを伝えスタンレー・ ドラッケンミラーにも伝えた。「正しい時にどれほど大きく稼ぎ、 間違った時にどれだけ小さく損をするか」

 


ソロスは正しい時は賭けすぎと言うことはない。 その機会を最大限利用すること。

 


ポンド危機に乗じて圧倒的な利益を上げたのはソロスで、 イギリス政府やイングランド銀行を相手に大勝利をおさめた。 ソロスは「自分に対する人の見方を変えなければならない。 私は単なる金持ちで終わりたくない。私には言うべきことがあり、 その意見を聞いてもらいたいのだ」といい、 金融と哲学の投資家と名乗るようになった。 世界最大のヘッジファンドとなり、 積極的に好んで政治的発言を行なった。 そして国境なき政治家と言われるようになった。

 


3.ジム・ロジャーズ

5歳から野球場の空き瓶を拾う仕事を始め、 6歳でリトルリーグでソフトドリンクとピーナツを売る許可をもら い、 弟や友人も雇って売り続け11歳には100ドルの預金を持つよう になった。 その100ドルで仔牛を育てて転売するビジネスを始めるが失敗。 チャート集を見て仔牛を高値で売っていたことに気づく。 自由に憧れ、お金儲けに興味のあったロジャースは、 14歳の時に雑貨屋での仕事、建設会社でも一生懸命仕事をし、 釘を打つことすら出来なかったが、 自発的に動くことで信頼を勝ち得る。 イェール大学時に投資に興味を持ち、お金の運用をする。 それを見ていた12歳年上のソロスはクォンタム・ ファンドを2人で設立した。

 


ウォール街の常識に疑いを持ち、 大勢に安易に従うことをしなかった。自分の理論を信じる上で、 経営者はもとより、競合相手や得意先、 取引先といった関係する可能な限りヒアリングを行い確信を持つ。 (思っているでなく、知っているが大切)

 


37歳で一度引退する。週に80時間以上働いたが、 2度の結婚生活は忙し過ぎることと価値観の違いが離婚のキッカケ となり、 拡大路線のソロスと6人分の仕事をやるから2人で仕事をしたいロ ジャースとの相違があり、新たな旅をすることになる。

 


世界一周を二度し、 オーストラリアの株式市場は誰も知られておらず、 これは儲かると思い勝負をかける。 ロジャースは投資で冒険しない、全てを調べ尽くすことだ。 そして成功する。 世界をバイクで旅をして各地で変化を目にすることになる。 自分の目で確かめ、自分の頭で考えることが成功には欠かせない。 大きな変化を肌で感じることがはるかに大切だ。

 


ロジャースは以前、日本株を全部売ると発言している。 昔日の経済大国が再貧国になったケースはいくつもある。 バイク旅行で日本を訪れた時、日本人の勤勉さに驚き、 二度目の世界自動車旅行で変わりつつある日本人を見たロジャース の言葉だけに説得力がある。

 


ロジャースの投資は歴史に学び、自分の目で見て、 そして考えることで成り立っている。

 

 

 

4.フィリップ・フィッシャー

祖父はリーバイ・ ストラウス設立当時からの会計士で一号店を毎日開店から閉店まで 取り仕切り、 父親は医者でお金に無頓着で診療代を払えない人にも丁寧に対応す る人だった。

家庭教師から勉強を受け、 運動が苦手で体も小さかったが学力がたかかった。

スタンフォード大学で地元の企業を訪問して分析を行う授業があり、フィッシャーは企業のことを学ぶ。

 


世界恐慌の時、ウォール街にはいなかったが、フィッシャーは価格と価値が違うことを学んでいた。

 


フィッシャーは一般投資家向けに少数の成長企業の株を中心にした助言を行うようになった。

 


「大きな利益を得るためには忍耐が必要ということである。株価に何が起こるかを予想する方がそれがいつ起こるかを予想するよりも簡単だからだ」

「株式市場がみんなを欺こうとする性質を持っているということだ。みんながしていることにつられて同じことをしてしまえば、大抵は全く間違っている」

 


超成長株を見つけて永久に保有する。モトローラは25年で30倍などが有名。

 


「真に優れた企業を見つけ出し、市場がどれだけ激しく変動してもその株を保有すること」

 


興味を持った株については、複数の関係者に聞き込みを行い取引先や顧客、競合企業から話を聞くことで、その企業の持つ強みや弱みを知り、成長の可能性を探る。企業の書かれたレポートの数字を信用しすぎないこと、レポートの向こうに側に隠された真実が投資家には重要。過去よりも未来の成長可能性。

 


株を売る理由

・投資対象を選択する時点で判断が間違っていた

・当初は優れた会社であったものが時の経過とともにかつての輝きを失う

・もっと有望な成長株に乗り換える

 

 

 

今が売り時、という声に踊らされないこと。成長企業に売り時はない。本当に優れた会社の株をできるだけ長く持つこと。

 

 

 

1.その会社の製品やサービスには十分な価値があり、売り上げの大きな伸びが数年以上にわたって期待できるか

 


2.その会社の経営陣は現在魅力のある製品ラインの成長性が衰えても、引き続き製品開発や製造過程改善を行って、可能な限り売り上げを増やしていく決意を持っているか。

 


3.その会社は規模と比較して効率的な研究開発を行っているか

 


4.その会社には平均以上の販売体制があるか

 


5.その会社は高い利益率を得ているか

 


6.その会社は利益率を維持し、向上させるために何をしているか

 


7.その会社の労使関係は良好か

 


8.その会社は幹部との良い関係を築いているか

 


9.その会社は経営を担う人材を育てているか

 


10.その会社はコスト分析と会計管理をきちんと行っているか

 


11.その会社には同業他社よりも優れている可能性を示唆する業界特有の要素があるか

 


12.その会社は長期的な利益を見据えているか

 


13.近い将来、その会社が成長するために株式発行による資金調達をした場合、株主の利益が希薄化されないか

 


14.その会社の経営陣は好調な時は投資家に会社の状況を饒舌に語るのに、問題が起こったり期待が外れたりすると無口になっていないか

 


15.その会社の経営陣は本当に誠実か

 

 

 

他の評価ポイントが高くても、15番目に疑問符がつくようであれば、投資すべきでないというのがフィッシャーの考え方である。

 

 

 

5.ピーター・リンチ

10歳で父親を亡くし、11歳でゴルフのキャディのアルバイトを始める。そこで成功した株の話を聞くという報酬を得る。ボストンカレッジに進学した時もキャディのアルバイトを続けて情報収集は続けていた。

ゴルフ客の中にフィデリティの社長がいて、それがきっかけでアルバイトを開始。大学卒業後、兵役を得てフィデリティに入社。マゼラン・ファンドを任せられ、4年間で一億ドルのファンドにする。

 


株式投資は科学というより芸術であり、何でもはっきりと数量化したがるタイプの人間には向かない」

「投資家の中にも、会社そのものを調べないででも、座って議論していると金融の女神がどの株が上がるか答えを教えてくれるように思っている人がたくさんいる」

「ライバル社のなかでどこが最も脅威になるか」

 


投資理由は小学生がわかるレベルまで落とし込む。この会社に投資したい、と思ったら家電製品を買うようにあれこれ調べて、ある程度の確信が持てたら買う決断をする。

 


マゼラン・ファンドの運用資産は16億ドルに達し、全米ナンバーワンのファンドマネージャにふさわしい成績と成果を上げた。一方でこれほどの成績を挙げるためにリンチは多くの犠牲を払った。そして退社した。

 


その後、アマチュア向けに株で勝つアドバイスを開始した。アマチュアはプロの真似はしないように指導している。

将来成長する株は、自分が暮らす街、日頃利用する店、日常的に利用しているサービスにいくらでもあるというのがリンチの考え方で、プロからすすめられるより、自分で感じたこと、家電製品を選ぶような真剣な選び方をするようにアマチュアに指導している。

 


6.ウォーレン・バフェット

経営するバークシャー・ハサウェイで50年かけて資産を180倍にした天才投資家。贅沢はせず、富の半分を慈善事業に投じたりすることから賢人と言われている。

父親は世界恐慌で財産を失ったが、極端なくらいに質素なやり方で、しかし着実に成功することでバフェット家の生活水準を中流階級まで押し上げたが、バフェットはこうした中で生まれ、苦しんだ父親を見て育った。

バフェットは6歳の時に、近所の人たちにチューインガムやコーラを売り始め、ガムで2セント、コーラで5セントの利益を得た。その後も小さなビジネスをして、11歳で120ドルを稼いだ。その時に読んだ本で複利で稼ぐことを知る。もし、1,000ドルの元手でスタートしても年利10%なら5年で1,600ドル、25年で1万ドルを超えることができることを知ったバフェットは35歳までにミリオンダラーになることを決意している。

 


「お金が欲しいんじゃないんです。お金を稼いだり、それが増えていくのを見るのが好きなんです」

 


バフェットにとってお金は自立を意味するものだった。お金があれば、人生で自分のやりたいことができる、というのがバフェットの考え方だった。

 


10歳で父親に連れられてニューヨーク証券取引所を見学したり父親のオフィスに行って証券や債券を楽しそうに見つめ、自宅では株価チャートを見て何か隠されたパターンがあるのではないかと見つめていた。父親に株を勧められるがよく分からない。よく分からないはリスクと学んだ。

 


・買った時の株価に拘泥してはいけない

・よく考えないで慌てて小さな利益を得ようとしてはいけない

・他人のお金を使って投資してはいけない

 


自分のお金なら下がっても待つことはできるが、他人ではそうはいかない。バフェットは11歳の失敗から、よく知ることと信じて待つ教訓を得た。

 


第一の原理は、損をしないこと

第二の原理は、第一の原理を忘れないこと

 


競馬を研究して挑んで失敗したバフェットは競馬場のルールを無視して手痛い目に遭う。感情がバフェットから冷静な判断力を失わせた。

 


そこから、ホールインワンで2万ドル、賭け金は10ドルだったとしても挑まないことにしていた。

 


図書館に通い、株や投資を勉強する中でグレアムの本に出会い師匠として仰ぐ。

 


「自分が好きなことをとびきり上手にやる」「尊敬できる人々と働く」バフェットにとって、グレアムはその両方を可能にする人生最高の師だった。

 


大学院を卒業し、3年父親の証券会社で働いた後、グレアムの会社に就職。「株券ではなく会社を買う」「安全域を確保する」「市場の変動に一喜一憂せず、長期保有を貫く」グレアムの教えを学んだ。そして、自分で考えることの大切さを学ぶ。

 


正気の沙汰じゃない、と酷評された投資も、バフェット自身は自分の判断に絶対の自信を持っていた。とことん調べ尽くし、自力で考えるグレアム流を貫いた。

 


困難なビジネスを立て直すよりも、強いブランド力を持つ優良企業をそれなりの価格で買う方がメリットがあると考えるようになった。

 


「リスクとは自分が何をやっているかよく分からない時に起こるものです」

バフェットにとって肝心なのは優れた企業の「価値と価格に大きな差がある」ことだ。まず価値を測る。そして株価を見て時価総額を計算すれば良い。その差額が大きければ誰が何と言おうとも即座に行動を起こす。これがバフェットの言う安全域である。グレアムの言う「株券ではなく事業を買う」「価格と価値の差を見極める」「十分な安全域を持つ」という考え方はしっかり受け継いだ。

 


投資の世界では株価の変動はもちろんのこと、魅力的な株の出現である。つい売りたいとか買い替えたいという誘惑に駆られることも少なくないが、バフェットのような長く持ち続ける信念の持ち主こそが真の成功者になることができる。投資に限らず、すぐに揺れ動くような信念は信念とも呼べないのである。

 


そしてバフェットは1982年の52歳で初めて長者番付「フォーブス400」に登場している1986年にベスト10入りして30年以上ベスト10であり続けている。

 


2006年、自らが所有しているバークシャー・ハサウェイ株の85%(当時370億ドル)をビル&メリンダ・ゲイツ財団をはじめとする複数の財団に長期間かけて寄付すると表明した。「私はずっとお金は社会に返さなければならない預かり証だと思っていました」

 


バフェットは「殖やす」だけでなく「使う」についても素晴らしいお手本を示すことで多くの人から尊敬される投資家でありつづける。

 


7.ベンジャミン・グレアム

バフェットの師。グレアムの教え

 


・株式は単なる紙切れでなく、その企業の一部である

・市場の変動を敵視せず、親しく付き合う。うねりになるのではなく、当初の方針を愚直に貫く

・安全域を考慮する

 


9歳の頃父が亡くなり、家計は厳しくなったが、アルバイトをしながら高校を卒業、17歳でコロンビア大学に入学。2年半で卒業するほど成績はずば抜けており、数学、哲学、英語の教職兼務付き大学院にすすめられるほどだ。

ウォール外に出たグレアムは統計担当者として高く評価され1920年に昇格、1926年に共同投資会社を設立。

当時のアナリストは自らの人脈や直感を使って市場の雰囲気を判断していた。グレアムは財務諸表など緻密な分析による投資を行っていた。公表された数字だけ詳細に分析した上で投資を行った。

 


自らの投資手法の本を書き、人に教えること。バフェットはこの時の生徒である。しかし、世界恐慌は予測できなかった。その間違いも認め、本を創刊して正直に伝えている。

 


真の投資家にとって株を売る理由はあまりない、と言う考え方はバフェットに受け継がれている。安全域の考え方も同様だ。

 


世界一の投資家ウォーレン・バフェットにとってグレアムは生涯の師であり、バフェットの等施術を学ぶにはグレアムの理論をよく知ることが何より大切である。