tigerdriver-91’s blog

東京に来た大阪人がつれづれなるままに書いたブログ

伝えることから始めよう

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2016年1月15日の生放送の番組を最後にテレビショッピング から引退し、22年間で数万回の出演をしてきた。 起業したのは37歳、父親が経営していた会社の暖簾分け( 佐世保支店)からのスタートだった。

 


長崎の平戸出身、父親が新しいものが好きで、 カメラを買ってきたことから写真屋を開始。 子供ながらにカメラ撮影が得意になった。 平戸という異国情緒の街から英語への興味も高まり、 長崎の猶興館高校か、大阪経済大学に進学。 ESSサークルに入って英語を勉強する。 義理の叔父からの勧めで阪村機械製作所のバイトを経験。 貿易部でコピーの雑用とかをする。そのまま就職。 社長から明後日まで英文の契約書を訳すことと言われて、 全部できずわからない箇所を素直に提出したら「私には、 これでわかるよ」と言われてほっとした。

2年目に社長から海外駐在を頼まれアメリカからヨーロッパに8ヶ 月駐在。「高田くん、バスの中から景色を眺めるのも、 人生の勉強だよ」社長から言われたことはわからなかったが、 後から繋がることが多いことも学ぶ。 帰国後一年も経たないうちに辞める。 同級生と通訳の仕事を起業するからだ。社長は「高田くん、 辞めるんだったな。君がいつかこの阪村で働いたことを、 本当に良かったと思う時がくればそれでいい」。その後、 阪村50周年でジャパネットでテレビに出ていて忙しい時も時、「 うちにいた高田くんか、講演してくれ」 と依頼を受けて講演をしていた。葬儀の際、 奥様から頂いた手紙に「闘病中は、 高田さんが出ているテレビを楽しく見ていました。 喜んでいましたよ」と。仕事が嫌とかなく、 仲の良い友達とやってみようと辞めただけだったが、 つてもなくすぐにお金がなくなった。(その後、 友人はローマ帝国衰亡史」の新書を手がけた中倉玄喜である) そして平戸に帰って父親のカメラ屋を手伝う。 カメラ屋で働きまくって、会社の暖簾分けにまでいく。 そこからジャパネットがはじまします。

 


そこまでのエピソードを代表する一節を記載します。

 


本誌ここから

 


振り返ってみると、私は天賦の才に恵まれたとか、 他人と違った特別なことをやってきたとか、 そんなことは何もありません。普通でした。 第一志望の大学には合格できませんでしたけど、 一生懸命に勉強した自分がいました。 好きなことをやろうと思って、 大学時代には英語を一生懸命に勉強しました。 一流企業に入ろうとか、出世しようとか、 そんなことは考えませんでしたけど、入った会社では、 とにかく期待に応えようと全力で働きました。 会社を辞めて父の写真館で働くようになったのは、 友達と始めた仕事が上手くいかなかったからです。 どちらかといえば、流れに身を任せて、 与えられた環境に順応して常に全力を尽くすというのが私の生き方 でした。それは、自分で会社を始めてからも変わりません。

 


本誌ここまで

 


なお、写真屋の時は、常に目の前に課題があるため、 その課題を解決することに全力を注ぎ続けてきました。 写真の単価を上げるために集団写真をとる、 寝ずに現像して翌日持っていく。 顔が映るように振り向かせて写真を撮る。 カメラが家庭価格になればら積極的にカメラを売る。 大手が入ってきて写真現像代が値下げされて、 写真が無料で現像代だけ請求するスタイルにすれば、 大手が入れていない短時間で現像できる機械を導入して現像代と写 真代を取る。

ビデオカメラに未来を感じたら、 ソニーの特約店を無理やり取り付ける、訪問販売を頑張る、など、 目の前の課題を解決するために様々な取り組みを実践した。

「できない理由を考えるのではなく、出来る理由を探す」「 今を生きる」それを大切にしていた。

 


独立した時は、写真屋というより、カメラやビデオカメラ、 カラオケ、ワープロなどの電化製品の販売と、 フィルムの現像とプリント、 そしてホテルの宴会や学校写真など観光写真の撮影が事業の三本柱 。つまり、カメラ屋さんが色んな家電商品を売る流れがあり、 ジャパネットもその一つであった。ということですね。

 


ラジオショッピングを始める直前の1989年の年商が2. 7億円。 長崎放送のラジオで広告を出していたことがキッカケで生放送で商 品を紹介しました。 そうすると二万円のカメラが50個売れました。100万円です。 当時のラジオは凄いですね。でも、 佐世保だけにある写真屋では長崎放送では年に2本しか放送させて もらえませんでした。それで長崎以外のラジオ局を周り、 何度も断られていたが、 中国放送山陽放送の方が偶然ラジオを聴いて面白いと思ったこと がキッカケで中国地方で放送開始され、結果的に中国、四国、 九州地方で放送されることになった。佐世保写真屋革命ですね。

 


本誌抜粋ここから

 


佐世保のカメラ屋では普通はやらせないでしょう。 不可能と思いますから。それでもやったんてす。 出来ないと思えばそこで終わりですけど、やると決めたら、 そのためにクリアしなければならない課題が見えてきて、 課題が見えたら解決法を考えることができたんです。それも、 今までと一緒でした」

 


本誌抜粋ここまで

 


当時、ラジオでは一万円以上の商品は売れないのが定石だか、 それを知らず、良い商品を誠実に伝えることで、 当時全く売れなかった24万円のシャープ「書院パソコン」を5, 000台を売ることもできた。 ラジオショッピングは基本1人で行い、 たった5分のスタジオ撮影のために出張に行く、 音声の完パケ編集も行う。電話が鳴ったらみんなで対応、 梱包から発送まで行った。 その時のパートはジャパネットの取締役もやった。 倉庫がないから社屋に平積み、 21時に電話があることもあるので自宅に電話転送。 長女が中学受験で神戸の学校に通いたいと言った場合は、 奥さんと子供三人が神戸に移り住み、自分は佐世保で一人暮らし。 夜の電話は神戸に転送など何でもやった。 娘の運動会を撮るためにビデオカメラを買うため50万は買えない ので、分割払いに。当時は金利が高く10万も払った。 そこで考えたのは

 


金利・手数料ジャパネット負担」

 


今では講演でこれを言うとウケが良いくらい定着したセリフ。 金利負担で利益を削っても行った。 金利だけで年間50億円の時期もあった。

 


通販で決めた時に不足したのが消費財の販売。なので、 カメラを売る時はフィルムのセット販売。 お客様の生活をイメージしてセット販売を開始した。

 


自前の代理店を銀座に作り、 1993年にラジオショッピングの呼称である「 ジャパネットたかた」とし、日本全国を図式化したロゴと「 北の町から南の町まで🎵」で始まるテーマソングも作った。

 


1994年にテレビショッピングを開始。 当時は砂嵐だった深夜枠からスタート。 当時はタレントを起用していた。 97年に自社ビルを作り正式にジャパネットたかたに社名変更した 。

 


大型総合カタログも作り、DMもおくった。2000年には、 オンラインショップ「ジャパネットタウン」を実施。 やらなかった失敗はあっても、一生懸命にやった失敗はない。 やって上手くいかない時は修正して数字をあげていく、 その繰り返しで自己進化。 500個売ることに対し100個しか売れなくても、 それを試練と感じ更に売り上げる。 今を生きて自己成長をすることを考えていました。

 


お客様の声を一番聴いていることからオリジナルの商品制作や、 スピード重視で2001年に自社スタジオを作成。 今まで撮影は福岡まで行って1,000万円かかっていた。 それを自前で行うようにして、 スピード重視でお客様に良いものを届けるようになった。 CS242チャンネルを取り、なんと生放送にこだわる。 顧客重視のスピード勝負。放送事故で放送委託業者の、 許可が降りない可能性もあったが実施した、 生放送だからできる今のことを伝える新鮮さにこだわった。 東京にもスタジオを作り、社員にもMCをやらせることにした。 それが今のスタイルの誕生です。

 


「何のために伝えるか」情熱を持って伝える。 それはお客様の生活が変わること、それを伝える。 スペックではない。お金儲けを第一の目的にしていない。 お客様にとって何のために伝えるかが大切。伝えることではなく、 伝わること。伝えると伝わるは全然違います。 伝えたつもりではダメなんです。相手が自分を見ている目線で、 自分を見つめ直すこと。 それによってジャパネットたかたは歴史的なコピーを作りました。 「明日の朝刊を見てください」 TVCMでこれを言えるのは広告代理店では無理です。 消費者目線のジャパネットだからできた言葉ですね。 新聞のチラシは1998年で9割捨てられている。 これを何とかしたいと考えた。 テレビとチラシのメディアミックス。 二十世紀でこれを実現したジャパネットは歴史に残る企業でしょう 。売れなかった理由を探すのではなく、売れる理由を探す。

 


・顧客情報流出問題

1998年7月に発生、発覚したのは2004年3月。 YahooBBの顧客情報流出が発覚した後に起きた事件。 テレビショッピング10周年のキャンペーンは全て終了。 何十億円の商品は売れない。 警察当局の調査で男性元社員2名が逮捕。DM発送用51万人分。 150億円の減収があったものの真摯に対応した。 売上が落ちても、業績が悪化しても、 お客様からの信頼だけは失ってはいけない。 それは企業にとって死を意味する。 何より大切なのはお客様からの信頼である。 コレを貫いたからこそ、 今も存続できる会社であると考えられます。 逆境にあって守りに入らず、攻めの姿勢で、 今できる最高の努力をする。

 


目標を設定しない経営。目標を設定すると、 それに達成しようと無茶をする。安売りをする。 それよりも今を全力で生きる。コレがジャパネット流ですね。

 


最後長男に社長のバトンを、 渡すことになったエピソードは感動しました。 1人で家で読んでいたら100%泣きます。六本木のくだりです。 これは僕が書くとチープになるので控えます。

 


本誌は本当に勉強になるバイブルです。

ぜひ手に取ってよんでほしいですね!!

 

 

 

 

 

 

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