tigerdriver-91’s blog

東京に来た大阪人がつれづれなるままに書いたブログ

ゴールをぶっ壊せ 影山ヒロノブ

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1961年大阪下町生まれ。 小学校の同じクラスにラウドネスで活躍している高崎晃くんがいて 、5、6年と続けて同じクラスに。 高崎くんには年の離れた兄がロックバンドをやっていて、 6年生のある日、 高崎くんが目の前でフォークギターを弾き始めた。 そこでやりたいと思ったのが音楽の目覚め。 中学では高崎くんの影響でDeep Purpleのハイウェイスターを聞いたり名も無いメーカーのエ レキギターを買った。高崎くんがバンドをやりたいというので、 Deep Purpleの曲名から取ったLAZYという名前にした。 ベースは同じく小学生からの同級生の田中宏幸。

 


高校でプロを目指すため、 キーボードとドラムの二人に引導を渡す。 友人を切るのは抵抗があったが高崎くんが言うと感情を超える説得 力があった。キーボードに同じ高校にいた井上俊次( 現ランティス社長)、 別の高校にいた高崎くんの高校の京音楽部だったドラムに樋口宗孝 が加わった。

 


オーディションでかまやつひろしに誘われてプロに。 ロッカーになりたくで上京したが、アイドルとしてデビュー。 影山はミッシェル、井上はポッキー、田中はファニー。 樋口はデイビー、高崎はスージーという名前をつけられた。

 


16歳で可愛い顔をした5人はデビュー三曲目にヒットし、 アイドルの活動が忙しくなる。 歌や演奏以外に時代劇のかつらを被ったコントや水泳大会やバレー ボールなど。忙しい毎日に追われ続ける中、 ロックが追求できない毎日に高崎くんや樋口くんは毎日怒っていた 。

 


アイドル扱いはもう沢山、 自分たちのサウンドを作りたいとのことで高崎くんと樋口くんはヘ ヴィメタル宣言をする。全員で作詞作曲をした。 最初は反対した事務所も俺たちの熱意に折れて、 好きなように作らせてもらった。でも俺は、 ヘヴィメタルのハイトーンでシャウトする歌い方は自分には「 ない」と思った。自分の声はハスキー。 20歳の誕生日を迎えたのち解散。 高崎くんと樋口くんはラウドネス、 井上くんと田中くんはポップバンドのNEVERLANDを結成。

 


自分はソロデビューするも失敗。 LAZYの曲を歌ってファンを集めるも信念がないため客足は減り 、1,000人から200人、 50人収容のライブハウスと小さくなっていく。 給料は払えないところまで来た。 他の仕事も考えたが音楽の仕事をどうしても続けたかったので、 ノーギャラでもいので音楽を続けさせてもらうよう事務所にお願い した。

 


しばらくノーギャラ。 売れない20代は殆ど客が入らないライブと建設現場のアルバイト に時間を費やす。建設現場での仕事は15年も続く。 37歳まで働くことになる。 現場は1日1万円だが過酷な労働環境で重い荷物を毎日運び、 朝も早い。睡眠時間確保に柱の上で寝る。 寝返りを打てば真っ逆様に落ちて死ぬ。

 


工事現場で偶然LAZYのファンに発見され、 毎日15時の休憩時間に缶ジュースの差し入れをもらう。「 ミッシェルも大変だね」と言われる。迷走していた30代。 自分のやりたかったことに縋りつきロックを流すも誰も見ない、 LAZYの曲にすがるしかない。 他のみんなは苦労して曲を書いて成功する。一番焦った時代。 結婚もしたので働くしかない。一番苦しい時期だった。 親方に恵まれ、 苦しい現場も皆んなで明るく前向きに働けばできないことを達成で きることを学んだ。15年も働いていたのでベテランとなる。 皆んなと働いて喜びを感じて現場を成功させる。 最後には現場監督までになり会社を設立。 一生懸命働き周りのみんなから信頼されアニキ肌となりゼネコンの 下請けとして成功する。音楽の夢を追いながら。

 


そこに戦隊モノもロックの歌が欲しいと言うオファーがくる。 電撃戦隊チェンジマンを歌って欲しいと。 最初は下に見ていたアニソン。 ロック全開で魂をかけて歌ったらダメ出し。「子供が聞くから、 巻き舌とかダメ、わかりやすく歌って」と。 1日目は朗読しかさせてもらわず相当悔しい思いをしたが、 誰に向けて歌うかを考えスタジオに何度も望んだ。 その曲が評価を得、 戦隊モノのオファーは続き信頼を勝ち得ることができた。 アニメソングも「宇宙船サジタリウス」のエンディング「夢光年」 を歌いファンからも高い人気のある曲となった。 島人戦隊ジェットマンのエンディング「こころはタマゴ」 はファンからリクエストが多い曲。その後、聖闘士星矢ドラゴンボールCHA-LA HEAD-CHA-LAは自分最大のヒット曲で代表曲となった。 でもまだ、稼げずアルバイトは続けていた。

 


当時は戦隊モノを含め「まんがの歌」と呼ばれていた。 アニメソングと呼ばれ始めたのはこの頃からで、 まだアニソンシンガーは市民権を得られない。厳しい世界だ。 それからもアニソンを歌い続け、徐々にアニソンが浸透する。 エヴァンゲリオンからアニメの流れは大きく変わった。 水樹奈々が紅白で歌った。 市民権を得るためには長い時間が必要だった。

 


影山ヒロノブは、まだYouTubeが全盛期である前から、 世界でツアーを行い、 世界でアニソンが浸透していることを肌で感じていた。 今や当たり前のことですが、 アニソンで世界ツアーをやったのは彼らが最初なのかもしれないで すね。

 


本誌は影山ヒロノブの半生が色濃く書かれた作品です。 2018年の本ですが、 影山ヒロノブを知っている人は楽しく読める本だと思います。

 


LAZY40周年で、影山、 高崎の写真などのエモい写真も満載です。あと、 どうでも良いかもしれませんが二井原実はでてこないです。

 


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