
加耶(かや)とは、3世紀から6世紀にかけて、朝鮮半島南部にある大邱(テグ)釜山(プサン)を通り朝鮮海流に流れる流域に存在した十数か国の小国群を示す名称である。日本書紀では任那(みまな)と呼ばれることが多く、日本の教科書では長く任那と使われていた。
伽耶(かや)狗邪(くや)加羅(から)など多くの呼び名があり、現在でも定着していない。
もともと「朝鮮」は紀元前2世紀から衛氏朝鮮から確認できている。それ以前は神話の話で、韓国や北朝鮮では檀君神話という日本でいう神武天皇を史実に反映する考え方と近い。
紀元前2333年に平壌京に朝鮮を起こし1500年朝鮮が続いたが、周の武王が殷の箕子を封建したので、檀君は山に隠れて山の神になったと伝わっている。
箕子は殷の滅亡後、周に仕えることを潔しとせず、朝鮮で国を開いたと伝える。ただ、箕子朝鮮は漢人によって造作されたと考えられる。
朝鮮には王がいたと言われるが、燕による圧力により弱体化したらしい。
秦の始皇帝が中国を統一すると箕子朝鮮王朝の否は秦に服従した。否の後を継いだ子の準は箕子朝鮮最後の王とされた。
衛氏朝鮮を建国する満は、燕に仕えていた。斉・趙・燕など数万の中国流民を統治し、勢力を備えた満は箕子朝鮮の準を攻め追い出し、平壌に都を置き自ら王になったのが衛氏朝鮮の始まり。前漢の武帝が衛氏朝鮮を討伐し、楽浪・真番・臨屯・玄兎の四郡が置かれた。238年に魏が公孫氏を滅ぼすと楽浪郡など中国王朝に剥奪され、その後、高句麗の攻撃により朝鮮四郡が滅亡。朝鮮は他に馬韓・辰韓・弁韓など50ほどの小国に分かれていた。
箕子朝鮮王準が戦争に負け、馬韓に入り、後漢書には馬韓を攻めて打ち破り「韓王」を名乗る。その王族も途絶え、馬韓北部の小国「伯済国」が百済となり馬韓を統一。辰韓から新羅、弁韓から加耶諸国となる。弁韓は金官を中心とする小国群。
王は金の卵から生まれる卵生神話が元になり金官の金氏、初代は首露王。卵生神話は6つの金卵童子で、他の五加耶も横並び。金官含め全て加耶と名がつく。金官加耶と言われている。
金官の次、大加耶にも建国神話がある。伽耶山の神がおり、その子である「脳窒朱日」が大加耶王の始祖とし、弟の「脳窒青裔」が金官の始祖首露王で六卵説を信じることができないと。
他は建国神話はない。
日本書紀では、任那(金官)と加羅(大加耶)を同一視している。ただ、日本書紀も来朝した時の時期で、その頃国力があった、金官を王としたり大加耶を王としたり使い分けているが、場所が違うだけで結局は同じものと見ているものの抽象的で神話や伝城的なものと捉えている。
加耶諸国の起源について明確な史料はない。
日本書紀による加羅七国の平定とあるが、創作の可能性が高く支配した事実は確認できない。百済と加耶諸国との交渉はは史実として認められ通交開始と捉えた方が良い。百済と安羅、大加耶、卓淳との通交を日本書紀は120年遡った244年のこととした。なお百済と倭国の国交において百済王から七支刀を贈られたのが始まりである。
5世紀の加耶は、最も勢力を誇っていた金官が衰え始め、大加耶(加羅)や安羅へ中心が移動していく。
百済と倭は軍事協力をし、新羅と加耶と戦うが、新羅は高句麗と手を結び、百済と倭は高句麗の侵入を防ぐ戦いを強いられた。なお日本書紀は3世紀の話と記載があるが180年時代を下って考えるのが史実だ。新羅は倭に朝貢しなかった。それを原因に倭は新羅を度々侵略し、新羅は美女を送り倭の兵を懐柔して新羅でなく大加耶を攻めさせるなど凌いでいた。なお懐柔された兵に天皇はたいへん怒り懐柔された兵を駆逐する。
上記は倭の五王の珍と思われる。珍は宋に「新羅」「任那」を含めて初めての六国諸軍事の称号を請求していた。この頃は任那は「金官」加羅は「大加耶」に二分されていて、金官の没落と大加耶の躍進を示している。この頃の大加耶は百済より勢力があり、新羅も大加耶王の冊封を示す。これは大加耶が世界的に国として認められた証拠であり、百済の弱体も示している。この頃は高句麗は強大で百済、加耶諸国に攻め入り、南下政策を防ぐために新羅に特使を送っている。
力をつけた大加耶は百済に侵攻して失敗している。大加耶は高句麗の脅威に対抗するため、百済と新羅とに援軍を派遣していたために、大加耶の反乱と位置付けられる。反乱は失敗し、大加耶の北部は伽耶山まて南下することとなる。
→この頃は武将が調略され反乱することが多いですね。
大加耶は高句麗百済新羅への政治的態度を都度変更している。この頃の日本書紀は大加耶の躍進もあり、任那を大加耶としている。
五世紀半ばから日本書紀に「任那日本府」が現れる。これは百済が伽耶進行を防ぐための倭系の人々の総称。雄略天皇の反日本人で地方豪族が加耶に入り加耶諸国の独立を支援したと考えられる。雄略天皇は反新羅であったが、任那日本府は親新羅であった。任那日本府には日本の豪族である吉備氏が入り、反百済・親高句麗・親新羅的な態度で雄略天皇とは真逆の方針をとった。なお、ヤマト王権から相対的に独立した旧倭臣勢力と任那日本府が土着した。
倭系の人物で親百済であれば百済の官僚になった。馬韓にはその倭系官僚が前方後円墳を作り、最初は権力固辞をするためだったが、いずれ葬送概念に変化した。倭系は筑紫出身で最初はヤマト王権の秩序を示すものだったが、いずれ葬送概念に変わっていったのだった。ヤマト王権は筑紫に大軍を配置して、三韓に備えていた。
五世紀後半から勢力をつけた大加耶に対し、新羅が強大化し、百済も復興した。伽耶諸国は徐々に危機に立たされていく。
継体天皇から敏達天皇の六世紀には百済と倭の外交交渉で渡来した使節団の中に倭系の氏族名で百済の位階を持つ役人が集中する。朝鮮半島南西部に十数基の前方後円墳と同じ古墳があるのは、日本列島と朝鮮半島との親密な関係を表す事例として注目されている。
大伴金村による「任那四県の割譲」は、百済による下韓への軍令・城主の設置を倭が承認したことで、任那(金官などの三国)滅亡の原因と日本書紀は記す。つまり大伴金村はヤマト王権の有力な豪族にも関わらず、百済から賄賂を受け取ったうわさもながれ、物部氏などから糾弾され失脚している。このころ百済は急速に力をつけ、中国南朝から仏教と儒教の先進文化を受け入れた。
新羅は金官を滅亡させるが、金官の王金氏を召し抱え貴族とした。金官金氏の子孫は半島統一の将軍として活躍した。百済も加耶諸国を占領する。残った伽耶諸国に呼びかけ「任那復興会議」が行われる。
百済の王都で行われた任那復興会議に集まったのは、百済、加耶諸国の使者、任那日本府。百済は新羅との講和を進めて、国境の現状維持を図り、加耶諸国への影響力を強めようと、倭の代わりに「任那復興」の会議を招集していた。安羅を中心に活動する「任那日本府」らは、独立を維持するため新羅や高句麗とも交渉していた。
新羅に3カ国が滅亡したのは新羅が強いのではなく、金官など弱点があったからだと説き伏せ、諸国が団結すれば任那三国は必ず復興すると力説した。百済は「任那日本府」を引き留めておきたい狙いがあった。百済は伽耶諸国に贈り物を渡し、加耶諸国は喜んで帰国する。任那日本府は独立を支援し、強制的に南下する百済をさけた。新羅と安羅が内通して離反しようとしていることを百済が知り、強く責めた。他方で百済は倭に使者を出して、私財を贈り、倭を懐柔しようとした。倭は日本府に指揮を任せることを指示した。百済の安羅進駐には難色を示したが、安羅の新羅との内通は問題としなかった。
544年の2回目の任那復興会議。金官三国の復興を願ったものだが、新羅と対抗する軍事力のため加耶諸国を引き込むことを狙いとした。大加耶、安羅の参加意欲は低い。百済は倭に兵を出すなと三策を出すも、百済による加耶諸国への侵攻という野心に気付き、倭も兵を出さず良馬と船を送るにとどめた。
任那日本府とは、安羅王の配下に位置付けられた倭系加耶人。安羅日本府との表記もあるが、結局、倭の要素は薄いと考えられる。
任那復興会議は上手くいかず、高句麗の脅威もあり、百済は高句麗との交戦に向けて動き出す。
548年、高句麗は兵6000で百済に攻め込む。百済は新羅に援軍を頼み、新羅は3000の兵で高句麗を破る。ただ、安羅と日本府は動かない。高句麗と内通していた。日本府を倭と見ていた百済は、倭に援軍を依頼しない。動かない日本府を見て、倭が侵略する可能性があると考えていた。ただ、安羅の内通者失脚後は親百済に方針を変える。
552年、百済は新羅、任那(大加耶や安羅など)を率いて高句麗を制圧。平壌まで制圧する。
ただ今度は高句麗と新羅が、百済と任那を滅亡させるべく、百済と新羅の同盟は破綻。百済は倭との関係が重要となる。
百済は倭に仏像、経典を送り、倭軍の衣服や食料の補助も約束。
554年、倭が助軍1000馬100船40隻が百済に到着し、新羅戦に投入。包囲された百済王を助けたとされる。欽明天皇が許可して倭軍は百済指揮下に組み込まれた。ただ、百済王は敗死する。百済弱体化に乗じて大加耶へ侵攻。残りの加耶諸国も降伏。
日本書紀は562年に新羅により任那は滅亡と記する。(560年の説もある)
575年敏達天皇は「任那復興」の詔を出している。任那王による間接的な統治を望んだ。百済・新羅は「任那」の使者を倭に派遣して虚構の任那として共同入貢していた。倭は定期的に貢納してくれれば満足だった。
600年、日本書紀は新羅と任那が衝突したとあるが、三国史記にはその記述がない。日本書紀は滅んだはずの任那の存在を記入している。
642年、百済が新羅に侵攻して旧加耶諸国の多くを百済が奪還した。ただ、金官四村の領有は解消されなかった。
加耶諸国は新羅によって滅亡したが、加耶は後世に影響を与えている。大加耶出身の 于勒(うろく)による伽耶琴(カヤグム)の伝承である。新羅琴として定着した。
815年編さんの「新撰姓氏録」には、任那(加耶)に出自を持つと伝える10氏の居住地やその祖を記載している。山城・大和・摂津など畿内の広範囲に及ぶ。
加耶は、中国にも遣使するような統一国家成立の直前で滅亡したため、まとまった資料が残っていない。日本書紀だけでない評価が必要。
本誌では、国家・国境や国籍など現在の国民的国家な立場を前提とした解釈ではなく、両属的、あるいはボーダレスな立場の人々がいたことを、史料から実証・解釈して強調している。
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