
永遠の0、海賊と呼ばれた男で有名な百田尚樹の日本国の歴史書で名著です。歴史を勉強した方であれば、誇らしい日本の歴史を確認できる読んでいて気持ちいい本でもあります。
・魏志倭人伝に、日本人は盗みをしない争いをしないと記述されている。歴史書に記載があることから、当時の魏の人々にとって、これらの特徴が非常に珍しかったに違いない。卑弥呼は「鬼道を持って人を惑わす」とあることからシャーマン(巫女)であったと考えられる。
・十七条憲法の凄さとして、和を以て貴しと生し、さかふること無きを宗とせよ。と一番最初にあることだ。つまり仲良くすることが何より大切で、争いごとは良くないと言っているのだ。その後、何事も話し合いで決めようと続く。これは民主主義である。世界の殆どが専制独裁国であった時代に「争うことなく話し合いで決めよう」ということを第一義に置いた憲法は世界的に珍しい。二番目に仏教を大切に、三番目にようやく天皇の詔を大切にせよとある。聖徳太子は皇太子なので、コレを一番目に持ってきて良いのだが、天皇の権利よりも和=話し合うことや仏の教えを大切にしたことは世界的に凄いことで日本として誇れること。
・律令国家とは、儒教に基づく法治国家。税の仕組みや田畑の区分、司法の細かい制度も作られた。
・墾田永年私財法により、藤原家をはじめ貴族は土地の私有化を強め土地を守るために用心棒として、下級貴族が武装化集団となったのが武士の始まり。平家は桓武天皇、源氏は清和天皇の流れを汲む。
・後三年合戦で奥州を鎮圧した源義家に、朝廷は恩賞を与えず豪族間の私闘と判断。源義家は私財をはたいて家臣に恩賞を与えたことから東国の武士は武士独特の忠誠心が芽生えた。
・モンゴル人は金や西夏といった遊牧民族を滅ぼし、高麗・インド・ロシア・アフガニスタン・ペルシャを治め、宋も滅ぼしドイツポーランド連合軍も撃破、世界人口の半分以上を支配下とした。毒矢、てつはう(火薬を使った爆弾のようなもの)に日本軍は苦しめられたが、偵察だった文永の役を退け、弘安の役では神風で勝利を得たというが、銭湯が長引けば兵糧不足となり勝利していたとも言われている。蒙古に負けなかったのは、全世界で日本とベトナムだけだった。
・徳川五代将軍綱吉は馬鹿げた法律「生類憐れみの令」だけでなく「鶴字法度」(つるのじはっと)という、溺愛する長女鶴姫の「鶴」の字を使うことを禁止し、井原西鶴は井原西鵬(さいほう)と改名し、京都の老舗「鶴屋」は「駿河屋」と屋号を変えた。
・遣米使節団とは日米修好通商条約批准のため日本人が初めてアメリカを公式訪問した。蒸気機関車とアメリカ軍艦にも驚いたが、大統領が江戸城のような大きな城に住んでいないことに驚いたが、アメリカ人も日本人に驚いたことがある。小栗忠順の使った天秤は小判とドル金貨のそれぞれの金含有量を測る精密さに驚き、算盤による計算の速さと正確さに舌を巻いた(アメリカの筆算よりも小栗の算術のほうが何倍も早かった)。咸臨丸にアメリカ人を招待した時、婦人たちも乗船しようとしたが、幕府の軍艦は女人禁制。木村喜毅総督は乗船を断る。怒った夫人は男装してまんまと乗り込む。彼女らが船を降りようとした時、木村はお土産として紙包を渡した。彼女らが降りて紙包を開けると、そこには美しい簪(かんざし)が入っていた。この粋な計らいに夫人たちは感動し、日本人の株が一気に上がった。新見正興、勝義邦(勝海舟)、福沢諭吉、中浜万次郎(ジョン万次郎)など、日本人一行の礼儀正しい振る舞い、慎み深い態度に感銘を受けた。
・日の丸を提案したのは島津斉彬。日米和親条約調印後、日本の船を区別するために作成。島津は鹿児島城から見た桜島が登る太陽の美しさを国旗にしたいと家臣には言っていた。源平合戦で平家は白地金丸、源氏は白地赤丸を使用。日輪のマークは天下統一の象徴で幕府は公用旗として使っていた。古代より日本は太陽を神聖視もしていた。
・ソウルにある独立門は、清から李氏朝鮮が独立して大韓帝国を名乗った時に出来たのだが、多くの韓国人が日本からの植民地支配から独立した時に建てられたものと誤解している人が多い。韓国政府が偏見まみれの教育をしていることを韓国人は知る由もない。
・大韓帝国を日本に併合したのは、大韓帝国最大の政治結社「一進会」であり、日本は世界の列強各国に「大韓帝国を併合してよいか」と打診をして、反対した国が一国も無かったから併合した。日本は列強各国のような収奪型の植民地政策を行うつもりはなく、朝鮮半島は東南アジアのように資源も豊富でなく、併合による資金を工面できるわけではないのだが、大韓帝国を近代化によって独り立ちさせて、各国の脅威に備えようとした。結果、この併合は強引に行われたものではなく、両政府の合意のもとでされ、当時の社会が歓迎したのであった。もちろん、朝鮮人でも反対意見があったが非合法ではなく、大東亜戦争後に誕生した大韓民国は日本から搾取されたと主張するが、むしろ日本は朝鮮半島に凄まじいまでの資金投入をし、近代化に大きく貢献した。例えば併合前に100校しかなかった小学校を4,271校まで増やし、全児童に義務教育を施し、10%から60%まで国民の識字率を上げ、ハングル文字も普及させている。朝鮮半島に約6億本の木を植え、鴨緑江に水力発電所を作り、至るところに鉄道網を敷き、工場を建てた。新たな農地を開拓して耕地面積を倍にした。米の収穫量を増やし30年足らずで人口を2倍にした。厳しい身分制度や奴隷制度、おぞましい刑罰を廃止。これのどこが搾取だろうか。慰安婦狩りをした事実もない。100年も外交に響いていることを考えると、大韓帝国併合は失敗に終わったと考えて良い。反対して射殺された伊藤博文は正しかったのではないか。
・1919年パリで行われたベルサイユ条約(アメリカ、イギリス、フランス、日本、イタリア)でドイツはすべての植民地を失い、国家予算の25年分の賠償金を課せられた。世界平和のための機関「国際連盟」の設立を提案した。日本はその規約に「人種差別をしない」という文章を入れることを提起する。国際会議で人種差別撤廃を提起したのは日本が初めてであった。投票の結果、賛成11反対5であったが、議長国のアメリカが「このような重要な案件は全会一致でなければならない」と主張。人種分離政策をとっていたアメリカはこの提案には反対の立場で、日本の抗議は受け入れられず条文には入らなかった。これは国際連盟が白人至上主義の機関であることを宣言したのも同然であった。常任理事国した日本は、江戸幕府から明治政府になった52年で世界を代表する列国の一つとなった。欧米が300年かかった進歩をこの短期間でやりとげたのである。鎖国で文明から切り離されていた日本が脅威的なスピードで追いついたのは日本国民が猛烈に勤勉して列強国に追いつこうとする強い意志かあったからに他ならない。
・南京大虐殺はフィクションである。オーストラリア人記者ハロルド・ティンパリーが英紙マンチェスターガーディアンの中国特派員で南京大虐殺を世界で最初に伝えたが、彼は月千ドルで雇われていた国民党中央宣伝顧問であったことが後で判明し、国民党からの偽情報の提供や資金援助が行われていたことが近年の研究で明らかになっている。同じ頃の南京政府の人口調査によれば20万人である。日本軍が占領した1ヶ月後には25万人に増えている。いずれも公式な記録で残っている。当時の報道カメラマンが撮った写真には南京市民が日本国軍兵士と和気藹々と映っている日常風景が大量にある。もちろん一部で日本兵による殺人事件や強姦事件はあった。ただ、それをもって大虐殺の証拠とは言えない。なお、戦後の占領下でアメリカ兵が日本国民を殺害したり日本人女性を強姦した事件は何万件もあった。南京大虐殺はアメリカで蒋介石政権が盛んに行なった反日宣伝活動のネタで、残虐な日本軍と犠牲者中国というイメージを全米に広げ、東京裁判で利用した。四半世紀後に朝日新聞のスター記者だった本多勝一が「南京大虐殺」を取り上げ、日本人がいかに残虐かを取り上げた。本多は中国に一泊二日、取材さえもしてないのにデタラメを書いた。毛沢東も周恩来も外交のカードと見て、一気にコレを使う。。。
・愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。ドイツの名宰相オットー・フォン・ビスマルクの言葉である。もっともコレは原文をかなり意訳したもので原文は「愚かな者は自分の経験から学ぶと信じているばかりだ。私は最初から自分の過ちを避けるために他人の経験から学ぶことを好む」みたいです。
・大東亜戦争で日本はアジアを侵略した、というのは嘘。日本はフィリピンを植民地としたあめりか、ベトナムとカンボジアを植民地としたフランス、インドネシアを植民地としたオランダ、マレーシアとシンガポールとビルマを植民地としたイギリスである。植民地を占領していた4カ国を駆逐したのだ。日本は「大東亜共栄圏」を考え、植民地支配から救済し、政治的経済的自由を推進した。1943年にビルマとフィリピンの独立を承認した(アメリカとイギリスは反対した)。敗戦により「大東亜共栄圏」は実現されなかったが、この影響力は大きく、東南アジアは欧米に占領されず、次々と独立国家となった。
・ポツダム宣言受諾に対し、受諾派は外務大臣、海軍大臣、枢密院議長、徹底抗戦派は陸軍大臣、陸軍参謀総長、海軍軍司令部総長と真っ二つに別れた。日本政府がポツダム宣言を受理すれば天皇は戦犯として処刑される可能性があったが、会議中、昭和天皇(44歳)は一切発言しなかった。昭和天皇はその生涯に亘り「君臨すれども親裁(政治的な採決を下す)せず」を貫いた。それをすれば専制君主となり日本は立憲国でなくなると考えた。会議は完全にこう着状態となり、午前2時になり、司会の鈴木貫太郎首相が「事態は一刻の猶予も許されません。誠に畏れ多いことながら、陛下の思し召しをお伺いして、意見をまとめたいと思います」と言った。ずっと沈黙を守っていた昭和天皇は「それならば、自分の意見を言おう」と、初めて口を開いた。一同が緊張して見守る中、天皇は言った。「自分は外務大臣の意見に賛成である」日本の敗戦が決まった瞬間だった。恐ろしいまでの静寂の後、部屋にいた全員がすすり泣き、やがてそれは号泣に変わった。昭和天皇は絞り出すような声で言った。「本土決戦を行えば、日本民族は滅びてしまうのではないか。そうなれば、どうしてこの日本という国を子孫に伝えることができようか。自分の任務は祖先から受け継いだこの日本を子孫に伝えることである。今日となっては、1人でも多くの日本人に生き残ってもらい、その人たちが将来再び起き上がってもらう以外に、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。そのためなら、自分はどうなっても構わない」コレはテープに残っている。(国会図書館所蔵)
連合軍にポツダム宣言受諾を伝えるが、この時「国体護持」(天皇中心とした序列)を条件につけた。連合軍の回答に「国体護持」はなかった。「陛下を守れないなら本土決戦やむなし」という声が上がるが、「私の意見は変わらない。私自身は如何になろうとも、国民の生命を助けたいと思う」もはや列席者一同は慟哭するのみであった。
・アメリカを含む世界44カ国が調印している「バーグ陸戦条約」には、「戦勝国が敗戦国の法律を変えることは許されない」と書かれている。つまり、GHQが日本の憲法草案を作ったという行為自体が、明確に国際条約違反なのである。
・日米安全保障条約とは、 アメリカが日本を防衛する義務が書かれておらず、 アメリカ軍が日本のいかなる場所にも自由に基地が出来る日本にと って不利、不平等な内容。それを知った韓国の初代大統領李承晩( りしょうばん) はそれまでの国際慣例を無視して勝手に国境線を引き、 そのラインを超えた日本漁船を勝手に取り締まるなどして、 日本固有の領土である竹島を不法占拠した。 昭和28年には島根県と海上保安庁が韓国人六名を退去させ領土標 識を建てた。しかし韓国の守備隊が上陸し竹島の占領を開始、 日本漁船に対し銃撃や拿捕を繰り返すようになる。拿捕328隻、 3929人の全員を捕まえ、死傷者44人にのぼる。 捕まった漁民は残虐な拷問が加えられ、 劣悪な環境と粗末な食事しか与えず餓死者まで出た。 軍隊のない日本は漁民奪還はできない。 韓国は日本に竹島と対馬を放棄するように要求していたが、 アメリカは「 これらの島が朝鮮の一部として取り扱われたことは過去一度もない 」と拒否した。 にもかかわらずアメリカは竹島奪還にはまったく動かなかった。 翌年自衛隊を正式に発表した。 岸信介首相はアメリカと粘り強く交渉して、 アメリカは有事に日本を防衛する義務である新安保に調印した。 そしてアメリカは日本国土に対し自由に基地が作れなくなった。 なおこの新安保に日本共産党が反対。 アメリカの戦争に参戦する可能性があると不理解な論理を盾に抗議 、首相官邸に多くの暴徒があつまった。自衛隊も「 日本国民から自衛隊は敵として扱われたくない」と防衛を拒否。 警察が防衛にあたり、岸首相に官邸退去を懇願するも「 首相は退去せず討死するなら男子の本懐にではないか」と。 自然承認される日は暴徒が首相官邸を囲み警察は12万人。 岸は弟の佐藤栄作(後の首相)と一緒にいて「兄さん、 ここで一緒に死のうじゃないか」 とブランデーを一緒に飲んだ逸話がある。
・ 沖縄返還はアメリカ軍が沖縄に核兵器を置く必要がなくなったから と推測される。ただ、アメリカの開発が進み、 原子力潜水艦に核ミサイルを搭載できるようになり、 ソ連中国の抑止力として沖縄に核兵器を置く必要がなくなった。 アメリカはベトナム戦争に介入し、 日本の基地は絶対必要であることから日米安全保障条約の継続は必 須であった。日本に断られないためにも沖縄返却に応じ、 条件として有事には沖縄に核兵器を持ち込むことができる、 返却費用は全て日本負担、 基地は引き続き継続の条件を飲まされた。
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