tigerdriver-91’s blog

東京に来た大阪人がつれづれなるままに書いたブログ

孫正義の参謀

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孫正義が何故赤字のボーダフォンを買収して黒字に変えたか、巨人NTTにどうやって立ち向かうか、政治家とどのように付き合うかと言う、一般人には分からないハイレベルな交渉術が生々しい書かれた、素晴らしい一冊です。

 

東日本大地震放射能漏れの話は、今のコロナとリンクする話があります。この時の決断は本当に見事で勉強になることばかりです。

 

学ぶことが多い一冊ではありますが、僕が感動した文を以下紹介したいと思います。僕は日本人として平凡に育ちましたが、孫正義さんはこれだけの苦労と思いを持った人だったと初めて知りました。孫正義さんにファンが多いことがうなづける一文を紹介します。アメリカ、スプリント社買収に向けてのスピーチです。本誌でも珍しく、そのまま引用された言葉です。

 

 

孫正義 ワシントンでの演説

「なぜ私がこんなに熱心なのか?それは私がこの国を第二の故郷と考えているからです。ひょっとしたら第一の故郷になるかもしれません。

 自分の国籍がいったいどこなのかよくわかりません。私は韓国から日本に移民してきた貧しい家族の下に生まれました。大韓民国、その昔は中国でもあったところです。社会の最底辺の場所に移民し、日本でも最も貧しい家族の一つでもありました。

 移民として社会の最底辺からスタートしたわけですが、日本は単一民族の国でありましたから、われわれの生活がどれほど厳しかったかはご想像のとおりです。非常に閉鎖的な社会でもありましたから。

 今ではもっと開かれた、より公平な社会になっています。時に近隣諸国と問題を抱えてはいますが、それでも今のほうがずっと良い状態です。その当時のほうがずっと厳しかった。

 その当時は私の家族は非常に貧しかった。子どもの頃に一度自殺を図ろうかと考えた事があります。学生当時、周りの同級生と違う私は日本人のふりをしていました。韓国名でなく日本性を名乗っていました。非常に厳しい毎日でした。

 たとえ私が教育を受けて日本で1番の大学を卒業したとしても、就職活動で偽ることの出来ない自分の実名を記載した履歴書を出して仕事につくことができるのであろうか?

 これでは、人生お先真っ暗だと思いました。私の父が病に倒れて吐血し、病院に運ばれたとき、母は泣きました。私の兄が当時17歳、私が16歳でしたが、兄は高校を中退して家族を支え始めました。私の家族全員が希望を失っていました。

 そのとき、父の主治医に父はもう死ぬのか、と聞いたところ、いや、彼は生き延びるだろう、ただし、簡単なことではないと答えました。

 兄が学校を中退して家族を支え始めたとき、私は兄にも自分にも問いかけました。私も同じように高校を辞めるべきだろうか?そして、私は一年生で高校を辞めました。通学したのはたったの3ヶ月、3ヶ月で高校を辞めたのです。

 ただ、直ぐに地元で働くのではなく、アメリカに渡る決断をしました。私より一つ上の兄が短期的には家族を支えてくれるだろう。しかし、私も同じことをしたところで、長期的な解決策にはならないのではないか?

 そう思って、アメリカに留学することに決めました。本当に一生懸命勉強しました。その一方で、あることに気付きました。この国にはいろんな人種がいますが、それぞれが等しく平等に扱われていました。

 空が青いことに気づいたのです。アメリカンドリームがわたしにも与えられたのです。いつか、いつか、このアメリカで大学を卒業したら、私の本当の名前である韓国性を隠すことなく名乗り、立派な人間になろう、と。私が韓国性を使うことで、精神的に追い詰められている子どもたちが、これ以上自殺を図ったりしないように。

 こういった人たちは、人生の中で小さな光、小さな希望をもっています。自分の本当の名前を明らかにして、かつ立派な人間になった人がいる。私はこういった弱者たちに希望をもたらしたい。そして私も大きくなり、やらなければならないことはこれだけではない、これたけでは十分ではない。と思いました。限られた人たちの役に立つだけでなく、大勢の人、いや、全ての人に役にたたなければいけない。

 私はコンピューターサイエンスから勉強を始め、その後に経済学を専攻しました。コンピューターは私の趣味でしたが、アメリカの技術を、そして科学を学び、ここアメリカで発明されたコンピューター技術を学びました。

 そして今こそ、その恩返しをしたいと思います。アメリカで受けた教育に本当に感謝し、アメリカンドリーム、起業家精神、情熱、希望、これら全てのことに対する恩返しをしたいと思い、そうすると心に決めました。」